沖縄探索日記
沖縄探索日記



沖縄の王尚氏


チュゥウガナビラ ♪ (訳:こんにちは)



GIMAです。



そろそろ尚氏シリーズも終わりが見えてきました。



頑張っていきましょう。



尚寧王以後、尚氏代々の王は江戸幕府の将軍に使節を江戸上りで派遣する義務を負うようになりました。



そして島津はというと、琉球と清との進貢貿易の実権をが握るようになります。すなわち薩摩藩の密貿易ですね。



琉球国は薩摩藩の服属国となって貢納を義務付けられますが、今まで通り清にも朝貢を続けます。そして薩摩藩は琉球が清との交易で得た利益でさらに潤いました。



さらに薩摩藩は毎年恒例の江戸上がりへも琉球の使節を同行させます。



その際の琉球国使節団の服装は、琉球に中国使節が来た際に用いる中国風の衣装を着させ、琉球は異国だということを意図的に強調させました。



その理由は幕藩体制下の日本において、異国である琉球人を供っている薩摩藩の権威と地位を向上させるという狙いがあったようです。



尚氏のお話はとりあえずお終いです。



次回からはまた別のお話をして行きたいと思います。



それでは、また。





チュゥウガナビラ ♪ (訳:こんにちは)



GIMAです。



今日は昨日の続きで尚寧王のお話です。



翌1610年、島津氏に強制されて尚寧王は生まれて初めて首里城を離れ、江戸へと向かいます。



途上の駿府では大御所徳川家康に、8月28日に江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見しました。



そして琉球国侵攻の功績として、島津は家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美大島を割譲させ直轄地としました。



それから一年後の1611年、尚寧王は琉球に戻され、三司官以下(鄭迥・謝名親方利山ら旧臣を除く)の重臣に島津への忠誠を誓う起請文を提出させられます。



そうする事によって初めて国家としての存続が許されたのですね。



それと同時に尚寧王は琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は島津が監督することとなります。



こうして島津は第二尚氏を存続させながら、琉球国を過酷に間接支配するようになるのです。



今日は以上です。








チュゥウガナビラ ♪ (訳:こんにちは)



GIMAです。



今日は昨日の続きで尚寧王のお話です。



翌1610年、島津氏に強制されて尚寧王は生まれて初めて首里城を離れ、江戸へと向かいます。



途上の駿府では大御所徳川家康に、8月28日に江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見しました。



そして琉球国侵攻の功績として、島津は家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美大島を割譲させ直轄地としました。



それから一年後の1611年、尚寧王は琉球に戻され、三司官以下(鄭迥・謝名親方利山ら旧臣を除く)の重臣に島津への忠誠を誓う起請文を提出させられます。



そうする事によって初めて国家としての存続が許されたのですね。



それと同時に尚寧王は琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は島津が監督することとなります。



こうして島津は第二尚氏を存続させながら、琉球国を過酷に間接支配するようになるのです。



今日は以上です。








チュゥウガナビラ ♪ (訳:こんにちは)



GIMAです。



さあ、今日はいよいよ第二尚氏の時代へと突入します。



クーデター後、内間金丸は即位し尚の名を受け継ぎ尚円と名乗って第二尚氏時代が始まります。



彼は在位7年で死去してしまいますが、息子マカトタルは幼かったので弟の尚宣威が国王位に就く事になります。



しかし、国王宣下の際に神官が尚宣威ではなくてマカトタルに神託を読み上げるという屈辱を受け、宣威は王位を辞退してその年の内に死んでしましました。



1477年にマカトタルは王位に就き、第2代国王尚真と名乗ります。



尚真は50年にわたって在位し、琉球の黄金時代を築き上げました。



彼はまず、仏僧の意見を取り入れ、王の死と共に行われてきた女官の殉死を廃止し、御嶽信仰を中心とした宗教を整備する事に着手しました。



次いで南山と北山の按司を首里に強制移住させ、代わりに按司掟(あじおきて、代官)を送って、王を頂点とする中央集権化を進めます。



さらには国民が所有していた刀剣や弓矢を没収して、国家による武力の一元管理を行うことで国内の騒乱を防ぐと共に、国防の備えとする事にも成功しました。



政権が安定すると、かねてから内属していた周辺島嶼の支配を強化していきます。



当時石垣島の按司オヤケアカハチが琉球の官吏に政治改革や改宗を迫られた為に反抗、琉球への朝貢を拒否して反旗を翻したため、第2代尚真は1500年に征討軍を送りました。



その際には宮古島の豪族・仲宗根豊見親(ナカソネトゥユミャ)は琉球軍の先鋒を勤め、石垣島に侵攻してアカハチを殺害したことによって先島諸島は完全に領有されました。



そうして時は下り第5代尚元が1571年に奄美諸島を制圧し、奄美が琉球の支配下に置かれます。こうして琉球王国は、奄美から八重山に及ぶ南西諸島の大部分を領有する事に成功しました。



今日は以上です。



チュゥウガナビラ ♪ (訳:こんにちは)



GIMAです。



さて、今日も引き続き尚氏の話をしていきたいと思います。



三山、(南山)(中山)(北山)を統一した尚巴志は首里城を王都として統一王朝を創りあげました。



もともと尚巴志には軍事的なカリスマ性があって、彼が治めていた頃琉球国
は大いに栄えました。



しかし尚巴志の死後、第2代国王に就いた息子尚忠は在位5年で死去してしまいます。



第3代は尚忠の息子尚思達ですが、彼もまたわずか在位4年で死去してしまいました。



若き尚思達にはまだ子供がおらず、叔父の尚金福(尚巴志の6男)が第4代となりますが彼も在位4年で死去しました。



金福の後継を巡って息子の尚志魯と弟の尚布里が争った結果、首里城は焼失、さらには明からの琉球王国を治めてもよいという印である「琉球国王之印」も失った上、両者相討ちとなってしまいます。(志魯・布里の乱)



ここでやっと巴志の7男である尚泰久が明へ使者を送り、国王印を下賜されて第5代王位に就くことになります。



彼は貿易立国琉球を自認して「万国津梁之鐘」を鋳造し、日本僧芥陰に選ばせた文章を鐘に刻み付け、琉球が交易によって繁栄していることを内外に示しましたが、1458年に鐘が完成すると同時に在位7年で死去しました。



ちなみにこの「万国津梁之鐘」は復元され、現在も首里城にあります。



その尚泰久の子である尚徳も在位9年で急死します。



その一大事に、三司官は成人していない王子を次期王に推戴しようとしましたが、首里城での戴冠式で尚氏一族は皆殺しにされ、農民出身から有力者へとのしあがった家臣の内間金丸が明へ朝貢し、1469年に国王となりました。



正史では尚徳が非情な悪王であり、周りに薦められた内間金丸は仕方なく王位に就いたとされているが、実際は軍事クーデターだったと考えられています。



今日は以上です。








こんばんはっ!


おっと、


チュゥウガナビラ。 


GIMAです。


今日は急いでいるのですいませんっ。


実は私が本当に興味がある尚家についてのお話をしたいと思います。


だけど、それは今日ではありません。(^^;



本当にすみませんっ!(;;)


それではまたっっっ。