沖縄探索日記
沖縄探索日記



沖縄戦


第二次世界大戦終了後、沖縄県は奄美諸島とともにアメリカ軍による支配のもと日本から切り離され、紆余曲折を経て、1952年に琉球政府が発足しました。


国際法上琉球人(Ryukyuan)として、日本人ともアメリカ人からも区別され、パスポートも琉球政府発行のものが交付されていました。


奄美出身者は、始め琉球人とされたが、1953年に奄美諸島は日本に復帰し、沖縄に出稼ぎにきていた奄美出身者は「日本人」に戻りました。


沖縄で仕事を続けるためには居住許可が必要となり、公職追放(当時の琉球銀行総裁、等)などで政治的権利は剥奪されてしまいます。


さらには土地所有権が認められないなど、沖縄に住む奄美出身者は様々な制限を受けることになり、これは沖縄の日本復帰まで続いていました。


そして1972年5月15日、沖縄が本土復帰し沖縄県が復活します。


その結果、沖縄出身者は日本国民としての地位が復活し、日本人に戻る事ができたのです。


チュゥウガナビラ。 



GIMAです。



さあ、長かった沖縄戦についてのお話も今日が最後となります。



沖縄戦のその後



特に戦闘が激しかった島南部には、沖縄戦跡国定公園に指定されている場所があります。



また、海軍部隊大田司令官が自決した海軍司令部壕跡は現在「海軍壕公園」として整備されていて、壕内の一部が見学できる他、資料館が併設されています。(現豊見城市)



一方、沖縄守備軍牛島司令官と長参謀長が自決した壕は現在平和祈念公園の
中にあり、壕の近くには「黎明の塔」が建てられています(塔の手前の展望台の下に壕があり、入口までは階段で降りることができますが内部は立入禁止で入れません)。



平和祈念公園内には県立平和祈念資料館や慰霊の日の首相参拝などで有名な平和の礎(へいわのいしじ)があります。



ちなみに、日本国内の国立公園や国定公園の中で戦跡であることを理由に指定されているのはここだけです。



ひめゆりの塔の敷地内にはひめゆり平和祈念資料館があります。



また、南風原町の陸軍病院壕一帯は黄金森公園となっていて、近くにある南風原文化センターには資料室が設置されているほか、近い将来一部の壕内の見学も可能になる予定と聞いています。



読谷村と北谷町には「米軍上陸の地」碑があります。また、最初の激戦地となった浦添市の嘉数高地は嘉数高台公園となっており、複数の慰霊塔があるほか、トーチカの跡が残っています。



さらに、米軍司令官が戦死した真栄里の高台には「シモン・B・バクナー中将戦死の碑」が建てられています。



周辺はその後報復戦が行なわれたのに加え、追い詰められた日本軍が最後の戦闘を繰り広げたため、それに巻き込まれた住民の一家全滅が極めて多い地域でもあります。また、戦死者も多いことから、白梅の塔など多くの慰霊塔が建てられています。



これら以外にも、戦時中に避難先に使用されたガマの一部が見学可能となっている他、平和祈念公園や米須霊域の一帯、糸満市内を中心として、慰霊塔や慰霊碑が沖縄県内全域に無数に存在しています。



沖縄戦についてのお話は以上です。



如何でしたか?



戦争はとうの昔に終わっている筈なのに、ここ沖縄ではまだまだ深い傷跡が残されているんです。



戦後60余年が経過し、当時を体験してきた方々もだんだんと減ってきています。



幸いな事にここ数年、若い世代の方々が沖縄戦の悲惨さを忘れてはならないと積極的に活動やサークルを活発化されているのをよく目にします。



それはそれで素晴らしい事なんですが、私的にはまだまだ認知度が低いように思われます。



それ故に、ここ沖縄の地で現実に戦争が起こったという事実を今後ともよりいっそう声を大にし、次の世代へ語り継いでゆくのが私達沖縄人の役割ではないかと思う次第です。



そういう些細な活動が悲惨な戦争を二度と起こさせない為の基(もとい)になってくれれば幸いです。














チュゥウガナビラ ♪ (訳:こんにちは)



GIMAです。



長かった沖縄戦シリーズもいよいよ佳境です。



頑張っていきましょう。



沖縄本島以外でも戦闘は行われました。代表的なものは1945年3月26日から29日にかけて行われた慶良間諸島での戦闘と、4月16日から21日の伊江島の戦闘です。



慶良間に米軍が上陸を開始した当日、夜間強行偵察により沖縄方面に飛来した岩本徹三中尉は、上陸部隊に徹底的な銃撃を浴びせ、大損害を与えました。



しかしその一方、地上部隊は米軍の上陸を予期してなくて、そのため徴発して備蓄していた食糧を米軍上陸後早々にほとんど失い、これが島民の飢餓を招いて集団自殺に走らせた、との指摘もあります。



これ以外の諸島では大規模な戦闘は行われませんでしたが、空爆は恒常的に行われていました。



島によって異なりますが、大規模な空爆はおよそ3月から6月いっぱいまで続きました。



宮古島、八重山諸島(石垣島、西表島)には、日本軍によって沖縄本島などから集団疎開がおこなわれますが、衛生面での不備によって多数の住民がマラリアにより死亡しています。



圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、洞窟陣地を利用した粘り強い防御戦闘と反斜面陣地などの巧みな陣地形成で苦戦を強いられたアメリカ軍は、この日本軍の防御戦闘を「歩兵戦闘の極み」と評しました。



これらは主に八原博通大佐の作戦立案によるものでしたが、大本営および沖縄守備隊首脳部は、投機的な攻撃による奇跡的な勝利を妄想しており、前線部隊に対したびたび無謀な銃剣突撃を命令しています。



八原参謀の作戦計画は、反対斜面陣地戦法と野戦重砲兵の長距離援護砲撃を前提としていて、寝技戦法とも呼ばれた。これは、長身のボクサーを柔道家が寝技に持ち込み、相手のパンチをよく防いで超接近戦に持ち込み、相手の戦意を挫こうとするものであります。



それには、まずアメリカ軍部隊を、大部隊の展開が困難で地形が複雑な日本軍陣地前方に誘導します。そして小銃、軽機関銃で掃射し、戦車部隊と歩兵部隊を分離させます。戦車部隊は、速射砲、地雷または破甲爆雷によって破壊します。



そして重砲兵の支援砲撃により駆けつけてきた敵の応援部隊を叩くことが基本戦術でありました。唯一の有効兵器は、満州から転出してきた重砲兵という状況において、八原の戦術的判断は的を射ていたと評価されています。。



侵攻してくる米軍に対して日本軍が善戦した例として、ペリリューの戦い、硫黄島の戦いも有名ですね。 これらの戦いは情報参謀堀栄三中佐の「敵軍戦法早分かり」をもとにして、現場指揮官が独自の防御方策をもって臨んだ防衛戦でありました。



一方で、「米軍が沖縄戦における日本軍の防衛を高く評価するのは、敵を強大に見せることで自らの戦果を強調するためである」とする意見もあります。



今日は以上です。




チュゥウガナビラ ♪ 



GIMAです。



今日は沖縄戦のパート13です。



戦陣訓や「鬼畜米英」などとの教育は、集団死に限らず別の悲劇も産み出しました。



多くの軍人・学徒・民間人らが追い詰められた本島南端の荒崎海岸では、ひめゆり学徒2名が現われた米兵に「我々は皇国女性だ! 殺せ!」と詰め寄り、撃とうとしない米兵にさらに「なぜ殺さないのか!」などと言い募ったため、ついに射殺されたという証言が残っています。



慶良間では、死屍累々たる状況から保護された住民に米兵が治療を行なったり食糧を与えると、「米兵に辱しめを受けるくらいなら」と自分の娘を殺したという老父が自責の念にかられて泣き伏してしまった、という話もあります。



また、学徒の一人が「早まってはいけない」と言ったところ、ほかの同級生が「今までの教育を忘れたのか」「生き恥をさらすつもりか」などと責め立て、逆に近くにいた下士官兵に「君たちが死んだらこれからの沖縄はどうなるのだ」ととりなされて投降した、という証言もあります。



生存者の中には「日本兵のほうがアメリカ兵より怖かった」「『アメリカ兵に捕まったら強姦されるか殺される』と聞いていたのに優しくしてもらえて驚いた」などと述べる者も数多くいます。



南部に現存する「轟の壕」では、壕内で日本兵が幼児を虐殺するなどしたうえ、投降を警戒した兵士が住民を奥に追いやって監視をしたため大量の餓死者をだしました。



また危険が迫ると逆に住民を入口附近において盾にした挙げ句、馬乗り攻撃で多数の犠牲が出たこともあり、その後投降した住民が米軍に「日本の兵隊を生かしますか?」と問われて「殺せ!」と答えたという報告もあります。



日本兵が沖縄の住民を自分達の盾にして、いかに虐待したのかが読み取れる報告ですね。



また、読谷村では、山中に潜んでいた日本軍が米軍に保護されていた住民を連れ出して虐殺するという事件もあったと言われています。



結果として沖縄戦は民間人に甚大な被害をもたらす悲惨きわまりないものとなりました。


チュゥウガナビラ ♪ 



GIMAです。



現糸満市真栄里で米軍司令官が戦死すると、報復戦が行なわれました明らかに民間人とわかっていて集落の全員を虐殺した場合もあるといわれています。



また、一帯には追い詰められた日本軍や避難してきた住民が集中しており、両軍が繰り広げた最後の戦闘に巻き込まれ、1,063世帯(2千名)という多くの一家全滅を出したほか、いくつもの集落が全滅しました。



特に島の南端に位置する旧真壁村・旧喜屋武村・旧摩文仁村は3村の合計で4千人余りにまで人口が激減(戦没者は3,773人)して村の機能を維持できなくなり、戦後すぐの1946年4月4日に合併して三和村となります。



(村名の由来は元が3つの村からなることと「永遠の平和への願い」からだといわれています)。しかし、それでも財政基盤が安定しなかったため、同様の事情を抱えていた旧糸満町・旧兼城村・旧高嶺村と合併して1961年10月1日に新糸満町(現糸満市)となりました。



久米島では、米軍の上陸はなかったが、日本軍軍属の鹿山正部隊長(兵曹長)の疑心暗鬼によって沖縄の住民がスパイ容疑で虐殺される事件(鹿山事件)がおこっています。



苦戦を強いられた日本軍が住民らに自決することを勧め、実際に手榴弾により集団で自殺したり、家族同士がカマなどで殺しあったりする悲劇も起こりました。(チビチリガマでの惨劇が有名です。)



ただし、軍の命令及び強制があったかどうかは不明瞭であるとして、日本国内では前述の事実を否定する者もいます。



座間味島の集団自決で生き残った女性によれば、そこでの「集団自決」は島民の申し出であったとも言われています。



また、戦後の国民に対する補償を定めた「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の対象が「軍協力者」に限られているため、自発的な集団自殺についても「軍の命令があった」と証言している可能性もあります。



しかし、具体的な命令があったか否かに関わらず、軍の行為やそれまでの教育が間接的な原因となっていたのは間違いありません。



戦陣訓は国民の間にも浸透していたと言われ、さらに「鬼畜米英」と教育されていたことから絶望のあまり集団自決に走ったという話も聞きます。



慶良間では元々乏しかった食糧を軍に独占されたため住民や末端の兵士が飢餓に陥り、追い詰められて集団自殺を決行したとの報告もあります。



ひめゆり学徒の証言の中には「『まだ若いのだから無駄死にすることはない』と逃がしてくれた」「突然『出ていけ、叩っ切るぞ!』と軍刀を振り回して追い出されたが、その直後に兵隊だけが手榴弾で自決した」というものもあります。



しかしその一方で、同じひめゆり学徒の証言には「兵士に手榴弾を渡されたが死にきれなかった」「兵士に青酸カリを飲むよう言われたが量が足りなかったため飲まずにすんだ」「攻撃に行って反撃を受けた兵士が民間人の避難していた場所に逃げ込んできたため猛攻を受けてほぼ全滅した」「『おまえたちが沖縄を守るのだ』とまだ10代の初年兵らを集めて囮に使い、兵隊たちはその隙に逃げた」というものもあります。




チュゥウガナビラ ♪ 



GIMAです。



さて、今日も沖縄戦の続きです。



米軍上陸前までは、沖縄住民は日本軍の勝利を信じていて、「友軍」と呼ぶなど親近感を持っていたこともあって、軍部の要請に対しても人員物資などあらゆる面で積極的に協力していました。



逆にアメリカ側では、沖縄住民は琉球王朝の名残から日本軍に非協力的であろうと推測していたましたが、この点は誤算であり、フィリピン戦などで見られた住民の反日ゲリラ化にも失敗しています。



悲劇的なことにこの軍民一体となった沖縄防衛は、沖縄戦末期には軍人と民間人との区別ができなくなってしまったために民間人も殺戮の対象となってしまい、多くの悲劇を生んでしまいました。



また、持久戦術によって遅滞行動を繰り返す日本軍兵士は、攻撃任務の遂行と民間人の保護という対極的な選択を迫られることになり、徹底した持久戦の遂行を命じられていたため、民間人を犠牲にすることもやむをえない状況判断をしなくてはならなかったのです。



沖縄戦末期になると、現場の日本兵は沖縄住民を戦闘の邪魔になると見なすようになってきました。



民間人の保護は現実的に受け入れられない状況だったんです。



逆に、日本兵自身が安全な壕内に避難するために、「我々はお国のために闘っているのだ」という口実によって、先に避難していた住民を追い出すこともありました。(ひめゆりの塔で知られる陸軍病院伊原第三外科壕や他の第一・第二外科壕、本部壕なども「追い出し壕」とされています)



ガマの中で泣き止まない赤ん坊を黙らせるために殺害した事例も報告されています。



また、民間人に対する米軍の人道的扱いを期待した日本兵が意図的に民間人の避難先に潜り込んでゲリラ活動を展開したという話も残っていて、それが米軍を「馬乗り攻撃」に踏みきらせたとも言われています。



その一方で日本軍は、沖縄住民のスパイ活動を警戒して方言の使用禁止を命じ、方言を使った住民をスパイ容疑で処刑したこともありました。(悲)



今日は以上です。







チュゥウガナビラ ♪ 



GIMAです。



昨日は沖縄守備軍の降伏調印が嘉手納で行われたところまで話しましたね。



今日はその続きです。



日本陸海軍の組織的抵抗は、この沖縄戦の終結をもって終了したといわれています。



沖縄本島上陸地点附近からは、上陸部隊のあとにやってきた工兵隊などによって、来るべき本土攻撃に備えた基地整備が進められていきました。



これらが、現在新聞などの紙面を賑わせている沖縄駐留米軍基地の元になっているんですね。



戦後、沖縄はアメリカ軍の支配下に入り、日本に返還されるのは1972年(昭和47)のことでした。



私、GIMAも当時のことはよく憶えています。



昨日まで、何の疑問もなく普通に使用していたドルがある日を境に、まったく使えなくなってしまい、その代わり見たこともないお金(円)が流通し始めましたね。



話は戻りますが、米軍の進攻が沖縄に至る可能性が出てきた時点で、日本軍は学童の疎開と民間人保護のための非軍事地域の建設にとりかかりました。



しかし、海上輸送路は米潜水艦によって寸断され、また日本軍の防衛拠点の建設も進捗しないなかで、民間人保護はほぼ実現されませんでした。



アメリカ軍側でも民間人の損害を最小限にするため、本部半島以北を攻撃対象地域から除外し、そのビラを上陸前から市街地に散布していたと聞いています。



先島諸島への集団疎開も実施されましたが、食料、衛生器材の不足で多くの病死者を出してしまいました。



今日は以上です。



チュゥウガナビラ ♪ (訳:こんにちは)



GIMAです。



今日も沖縄戦についてパート9です。



ついに6月23日、沖縄守備軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が摩文仁司令部で自決しました。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅し、25日には大本営が沖縄における組織的な戦闘の終了を発表します。



しかし、牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦え」として降伏を許さないものであったことに加え、指揮系統の崩壊によって自決の事実や大本営発表がはっきりと伝わらなかったため、このあとも残存兵力による散発的な戦闘は本島各地で続きました。



組織が瓦解して統制を失い、補給も途絶えた日本軍は、各々が食糧を強制的に徴発するなどして住民と多くの軋轢を生じながら、終戦直後まで散発的抵抗を続けます。



そのような部隊の代表例としては、第24師団配下の歩兵第32連隊(連隊長:北郷格郎大佐)、ならびに、同連隊指揮下の2個大隊などが知られています(北郷大佐をはじめとするこれらの部隊の生き残りの将兵たちが米軍に投降したのは、日本政府が8月15日に国民へ停戦を発表してから2週間後の8月29日でした)。



最終的な沖縄守備軍の降伏調印は9月7日に嘉手納で行われました。



沖縄守備軍司令部の中では、高級参謀の八原博通大佐が捕虜になり、また、航空参謀の神直道少佐(後に中佐)が大本営本部の命令で本土に脱出して九死に一生を得ます。



のちに司令部内部の出来事の貴重な証言をしていますが、八原博通大佐は自ら立案した作戦が多数の住民の死を招いたことから自責の念に駆られ、知人の招きでも沖縄の地を再び踏む事はなかったと言われています。



今日は以上です。




チュゥウガナビラ ♪ (訳:こんにちは)



GIMAです。



沖縄戦についてパート7です。



アメリカ軍はこの後も南下を続け、住民と守備軍はしだいに島南部へと追い詰められていきます。



多くの住民と軍人は壕(「ガマ」と呼ばれる自然壕を含む)などに隠れますが、アメリカ軍は、少しずつ前進しながら壕を発見し、銃撃を行ったり、手榴弾や火炎放射器、ガソリン、ガス弾などを使って1つずつ壕を全滅させて南下を続けました。



投降も呼びかけましたが、日本側には「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」「死シテ罪禍ノ汚名ヲ残スコトナカレ」という戦陣訓があったほか、「鬼畜米英」と教育されたことから捕虜になっても虐待されるという恐怖心があり、敢えて投降せずに「集団死」を選ぶ壕もありました。



ちなみに私、GIMAの祖母や母などが隠れていたガマでは、軍人はいなかったため、(反対した者は居たそうですが、)祖父達が中心となって早々にアメリカ軍の投降呼びかけに応じ、両手を掲げてガマを出たそうです。



おかげで私、GIMAもこうしてこのブログに書き込む事も出来ているんですね。



当時、機密や情報の漏洩を恐れた日本軍では「投降する者は軍人・民間人を問わず射殺せよ」という命令が出ていたとされており、投降できずに殺されたケースも多々あったと聞いています。



今日のところは以上です。


チュゥウガナビラ ♪ (訳:こんにちは)



GIMAです。



ではいきますね。



アメリカ軍による沖縄本島上陸後、日本軍は賀屋支隊を主体として、島袋方面から嘉数陣地へ遅滞行動をとりつつアメリカ軍を誘導します。



アメリカ軍は首里の司令部を目指して南進するんですが、途中の宜野湾市付近には守備軍が丘陵地形と地下壕を利用した陣地で守られており、進軍してくるアメリカ軍を何度も撃退します。



ここでは多くの将兵が奮戦し、賀屋支隊をはじめ、松山第22連隊、独立臼砲大隊、伊東歩兵大隊などが伝説的な活躍が見せています。そして、激しい戦闘は約50日間続きました。



この遅滞作戦は一定の成功を収めましが、ここで日本軍は無理な攻勢に転じます。5月4??5日に強行された守備軍の総反撃は大打撃を受けて失敗し、継戦能力を一気に喪失した結果、首里一帯の守備も難しい状態となっってしまいました。



5月31日までにアメリカ軍は首里市(現在の那覇市の一部)を占領しますが、これに先んずる5月24日、沖縄守備軍司令部は南部島尻地区への撤退を決定し、5月27日に津嘉山、30日にはさらに本島南端の摩文仁(まぶに)に撤退して、新たな防御陣をたてます。



しかしこの時点で、日本軍は全軍の80%を消耗していました。 中部がアメリカ軍によって分断された時点で、住民の北部(国頭)地域への疎開は不可能となり、取り残された住民は南部・島尻地域に避難していました。



そこへ守備軍が撤退したことで軍民混合の状態が生じ、この後逃げ場のない戦場での被害が加速することになります。



続きはまた明日です。